昨夜の就寝時間は夜11時。
時差3時間のためオハイオ時間では午前2時よ!

子供どころか大人だって普段はとっくに寝てる時間じゃない。
そんな時間に寝ちゃって、明日起きられるのかしら?

でもね、時差は寝たら縮まるわけじゃないのよね。
だから朝7時にみんなですっきり起きられたわ。
なぜならこれはオハイオ時間の朝10時。

いいわ~。時差いいわ~。よく寝られたわ~。

7時に起きて、子供達だけ昨日ニジヤで買ったもので軽く朝ごはん食べた後
ホテルの周りを少しだけ散策したわ。

これってここのランドマークよね


このお弁当のメニュー、
写真見た限りでは花れんの方がおいしいはず


当然まだどこも開いてないんだけど、ヤマザキパンだけは開いていて
朝からパンのいい匂いを漂わせていたわ。
クリスマスもやるのね。


チャイナタウンなら世界中に履いて捨てるほどあるけど、
ジャパンタウンなんてお母さんアメリカに来て初めて見たわ。
すごいじゃない。。。!ロスの一角にこんな街を作ったなんて。

お母さん興味湧いたから
Wikiからリトルトーキョーについてちょっと抜粋してみるわね。


1884年 日本から北米大陸への移住が始まる。
いよいよ始まるのね。

1885年 日本人漁民チャールズ・カメこと茂田浜之助が日本食店カメ・レストランを開店。
25世帯の日系人が居住、日系児童の為の学校も出来、これがリトルトーキョー発祥の基礎となった。
なんでカメだったのかしらね。
漁民、って言う?漁師のことかしら。
ガッツがあったんだろうな~!


1907年 小東京の人口が3万人を超える。
3万人って結構な人数よね

1924年 日露戦争で日本が勝利した頃から起こりつつあった日本人排斥の流れの中、
政府が排日移民法を制定。日本からの移民を禁止。
差別されて収容されて日系移民がとんでもない目にあわされてた頃ね。
トランプ君もやりかねないわね。日本からの移民禁止


1945年 第二次世界大戦の終結に伴い、
この年の暮れまでに強制連行された112,000人の内、25,000人がリトルトーキョー、
あるいはその周辺地区に戻る。
おかえりなさい。。。!

1978年 「ジャパニーズ・ヴィレッジ・プラザ」が完成。
ここにも高度経済成長が。

1990年代 日本からの旅行者で賑わうが、バブル景気が終焉期に入りその数は激減。
この頃、新規の店舗経営者には韓国人・中国人が目立ち、
空き店舗や得体の知れない店舗が目につく等、
日本人・日系人の間では「リトルトーキョーは終わった」とも囁かれ、
90年代は小東京にとって冬の時代とも云われた。
バブル後って日本もこうだったんでしょ?
そしてあの隣国の人たちのゴリラ具合はいつ何時も安定してるわね。


1995年 野茂英雄がロサンゼルス・ドジャースと契約、小東京も野茂特需に湧く。
小東京が歴史地区に指定される。
ノーモっ、ヒデーヨー♪のメロディが頭で流れたあなたはアラフォー以上。

2001年 旅行者の激減に伴い、小東京の宣伝活動を強化。
10万枚のパンフを空港・ホテルに配布
頑張れ~!

2009年 「ミツワマーケットリトル東京店」が閉店
ミツワ━━━━(゚∀゚)━━━━!!

ざっとこんな感じ?

今は90年代ほど閑散とはしてないけど、
あんまり日本人がいないみたいね。

たしかにリトルトーキョーのワンブロック隣のストリートには
ホームレスが溢れかえってて道がめちゃめちゃ汚れてたわ。
あれは怖くて駐在員とかは住めないわよ。

でもこのリトルトーキョー、すたれてほしくないわね。
100年以上、日系移民が頑張って作った街なんだものね。

ちなみにこのリトルトーキョープラザの一角に、アーケードになってる
まるでリトル中野ブロードウェイみたいな道があったんだけど、


プリクラがあったり、


コスプレショップがあったり、


ピカチューとかのクレーンゲームがあって


とにかくおいてるものが全部サブカル。

これ、日本マニアしか来ないし来ても買うものないわ。
それだけマニアも増えてるってことなのかしらね?

でもこの一角、すごくいいわ。
観光客がたくさんいる時間はもう少しにぎやかなんだろうけど。

このサブカル通り、こんなところにお母さん純和風喫茶やりたいわ。
夜はスナックにしておでんだすのよ。

あんまり流行ってないけど常連がいつも席を埋めてる的なね。

お母さんの夢がまた一つ増えたわ。
すぐ忘れるからメモっとくわね。

メモ;リトルトーキョーのサブカル通りで喫茶店を開く。


つづくわ!